バランス「偏重」教育

http://ameblo.jp/nihatori/entry-10289532100.html

今日、このブログを見ていて、自分の存在を認められたような気がしました。

確かに、自分が小学生や中学生の時には、こうした概念さえも教育現場にはなかったのではないか。
「成績が良いから、発達障がいではない」と言う発想が、親にも、先生にも有ったんじゃないかな。

自慢する訳じゃありませんが……小学校・中学校と家で勉強したことがありませんでした(いや、してましたけどね…)
自分にとって勉強とはデーターベースにデータをひたすら入れる作業。
だから、データを入れるのに授業時間以外の時間は必要としなかったんです。
(ただ、これ暗記とは違う)

高校生くらいの時までは、半年前の出来事の日まで覚えていた。
(多分、代償性機能的な部分があったのだろう)

授業時間は予習の時間。興味あるところはガンガン読み進む。

そんな感じでした。

確かになぁ……今になって思ってみれば、図鑑なんかも結構興味にばらつきが大きくて、20冊セットの図鑑は、読んでないのは1回も開けていない、好きなのはボロボロになるまで読むって感じ。

問題はこうしたTwice Exceptionalな子どもをどう育てるのかという事です。
日本の、バランス偏重(個人の中でのバランス、クラスの中でのバランス取る)教育では、こうした興味に固執し続ける性格は好まれるものではありません。
でも、こうした特性を無視しても良いのでしょうか?

自分は究極的には、プロフェッショナリズムという物が好きです。
好きな事を突き詰めた方が良いのでは?

それが、時に「天才」と呼ばれる人たちの行動様式であるし、
スティーブ・ジョブズも、アインシュタインも、エジソンも間違いなく発達障がい者です。
(どういった運命のイタズラか、伝記を読んだのは4~5人しかいないんだけど、この3人は全員読んでいる)

でも、今の社会にはその障害になる人が沢山いるのです。
興味をスポイルしようとする人たち、ノイズ、ヒエラルキー的な社会環境が生きにくさを感じる要因でした。

彼らがいなければ、今、電球の下で生活する事も、GPSで自分の位置を確認することも、スティーブ・ウォズニアックのマニアックな発明品が世に出て、MacやiPadやiPhoneが手元に有る事も無かったでしょう。

そして、親側にも誤解が有って知的発達障がい・発達障がいが入り交じっている。
学業成績と発達障害が必ずしも相関関係を示さないのは、紛れも無い事実です。
学業成績が優秀だから、テストの点がいいから、発達障害でない とは言えないのです。

イメージ的には信じたくないですけどね。
本来、白黒つけたがるのは、アスペルガー的な特性(自分の本来の性格的特性でもある)なのですが、どうもこうした障害では、白黒つけたがる感じがあります。
完全な白、完全な黒なんてものは存在しないとしても、グラデーション的にグレーな部分の方が多いでしょ?

そうした意味でも、まず自分が発達障害の診断を受けてみようと思います。

その上で、自分の経験上、今、苦しんでいるTwice Exceptionalであったり、giftedは多いはず。
自分もつい最近まで、グレーという感覚が受け入れられなかったですし、
今でも人間関係はデーターベースに基づいてしか、築けません。

自分が、そのTwice Exceptionalであると分かれば、人にも説明しやすい、少しだけど変わるかもしれないと、思っています。
それを幼児期や小学生、中学生の時に見なかった事にしたり、個人の性格に帰結させると、取り返しがつかない事になります。
そうした意味でも面白い経験になりそう。

なので今、ドキュメンタリー映画を作ろう位の勢いで割り切ってます(笑)

Share Your Thoughts

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください